今般、毎分毎秒あくせく働いたり、愛しあったり、憎しみあったりして、息つく暇もなく冷凍現代都市に暮らすあらゆる人々が、
ブログなぞという、能動的に、一定の文字情報を吟味せねばならぬような媒体を、誰が読むのだ!というか、なんの意味があるのか?という感慨が、身の丈を遥かに上回る黒い波のようになって、今の私と私の心情を、覆いつくさんとしている。
覆いつくさんと。正しくは、覆いつくされんと、と書かんといかんがいね!
…とすっかり、しかしながら気付かぬうちに、口の端から、方言が漏れ出てしまったことに慄いて、誰あろう私自身が、私自身こそがもっとも慄いてしまっている始末である。
方言
に当たるのは、数行前のセンテンスの末尾
「書かんといかんがいね!」
の
「がいね」
の部分である。
これは、2025年現在、毎週金曜日22時からテレビ東京系列で放送の、頑張っている企業と、そのなかで、更に輪をかけて頑張っているヒトにスポットを当てた経済ドキュメンタリー『ガイアの夜明け』を観た感想を述べる際の同僚Aと同僚Bの会話
「昨日の『ガイア』観た?よかったよね?」
「あー、いいよね!」
と酷似している。
「がいね」
が、である。
ここで、私と同郷ではない多くの方々に向けて、ヒントめいた要素をお示しできたらと思う。
私が生まれ、また今も暮らす、この「がいね」といった鼻濁音上等の薄汚い語尾を用いる一地方都市では、『ガイアの夜明け』をリアルタイムで鑑賞することが叶わない。
しかしながら、私が本当に『ガイアの夜明け』を楽しみにしていたのは、蟹江敬三がナレーションを担当していた頃だったし、やがて小池栄子の野放図な奔放さと、同時に見え隠れする涙もろさへのギャップに萌えて『カンブリア宮殿』へ傾倒していったし、時おり「モーレツ社員!絶好調!」みたいな描写があるのが、頑張っていない自分への逆カンフルになって辛かったし、といったもろもろの理由で『ガイアの夜明け』を観なくなっていたのは事実。
とすると、別段リアルタイム視聴にこだわる必要などないし、リアルタイムどころか、バッチ処理で結構。
ただ、論点はテレビ番組『ガイアの夜明け』の思い出あるいは、番組内容への個人的感想ではなく、「がいね」という方言である。
もう、聡明な、または碩学たる皆々様、あるいは私と同郷の同胞ならお分かり。
話のケツを「〜がいね」「〜がや」で締めて、対話者に向けてやんわりと賛同を促したりする言葉遣いをするのは、
何が言いたくて、書きたくて、この文章を認めているのか、もう、すっかり目的をバニシングしているし、とっぱじめの内容は
現代におけるブログの意義
を憂いて、
「クソ忙しい中、誰がお前の駄文なんぞ読むかいな…」
という圧倒的な見知らぬ人々の声無き声を、想像して尻込みしてしまう俺。みたいなフェーズだったのだ。
その地点を、フェーズ0とすれば、
方言「がいね」の登場が、フェーズ1
『ガイアの夜明け』の説明が、フェーズ2
方言「がいね」が金沢弁であることを明かしたあたりが、フェーズ3
そして、今ここらへんを、フェーズ4
とすれば良かろうと思う。
そして、これははっきりとさせておきたいが、もうこのエントリーはフェーズ5で終えたい。
終えなければならない。いい加減。ダラダラと。50代連中の集まるブレストじゃないんだから。もう、あれはパワハラそのもの。あなたは私の青春そのもの。お前の青春を押し付けてくるその態度自体がパワハラそのもの。お前ら、今すぐバニシング。
という訳で、
このブログは、
金沢市に暮らす私が、
空き時間を利用して、
主に市内の喫茶店を訪ねて、
主に飲み物だけを嗜み、
店内の雰囲気を伝え、
各お店のご紹介をしよう!
という試みです。
手探りですが、やってみるしかありません。
どうぞ、よろしくお願いします。
ここがフェーズ5です。