2025年/日本/日本語/126分
あらすじ
漫画家になるという夢を持つ、ぐうたら高校生・明子。
人気漫画家を目指していく彼女にはスパルタ絵画教師・日高先生との戦いと青春の記憶があった。
先生が望んだ二人の未来、明子がついた許されない嘘。
ずっと描くことができなかった9年間の日々が明かされる ー。
出典:映画『かくかくしかじか』公式サイト
煙草シーン
本作には、直接的な喫煙シーンはない
主人公・明子の師である日高先生のアトリエ至近のバス停に灰皿が置かれている
明子の通う高校、美術教師の机にも焼き物の灰皿が置かれていた(気がする。見間違いかも知れない)
煙草シーンの役割
日高先生は「酒も煙草もやらない」
し、
明子の通う金沢美術工芸大学のキャンパス内でも学生たちが吸っている様子は見られない
90年代の、まして美術系大学ならば、かなりの人たちが喫煙していたのではないか?と想像するが、喫煙シーンはない
「灰皿」という形で、「田舎町」と「90年代」を表象するのみ
ベスト煙草シーン
あくまで台詞内ではあるが、病に倒れた日高先生のことを、明子が
「酒も煙草もやらない先生が、どうして…」
と天命を呪う独白をするシーン
煙草の姿は一切出てこないが、
感想
まず、映画のトーンとして、ベースにあるのはいわゆる「マンガ的」描写である。
・先生が明子の襟首を掴んで引っ張る
・竹刀をマトリックス風によける
・先生に追いかけられて、明子がひっくり返ってコケる
みたいな、しごきシーン。
・明子の両親の「アキコせんしゅー」のようなコミカルなやりとり
のデフォルメっぷり。
なるほど。
こういう映画なんだな、このノリで楽しむのだな。
そして、ラストに向けてシリアスに転じることで、感動を誘うのだな。
と納得しながら観ることになる。
そして、そのトーンは後半まで続く。
・明子が心情を吐露する際、声に出してその思いを語る
正直言って、主人公が己の感情を台詞で説明してしまうような映画はどうしたものか?
と思う。
モノローグがナレーションとして挿入されるのは良しとして、役者に話させる。
この演出は、後半「巻頭100ページの原稿」を依頼され、東京の仕事場で「どうしよう!?」と悩むシーンでも繰り返される。
ずっとこの調子。
で、「先生の死」が間際に迫ってから、シリアスに移行する。
というやり口、涙を搾り取ろうとするようなやり口を、許容できるかどうか。
そこが、この映画を評価する分かれ目だと思う。
「ただ一回ふたりで呑んだ」居酒屋のシーン
居酒屋のカウンターに座る明子と先生を、手前のテーブルの客越しに撮っている場面では、他の客の声はオミットされ、ふたりの会話しか聞こえない。
そういう演出なのは分かるし、事実居酒屋で話したことなのだろうが、その不自然さは、映画的ウソを越えて引っかかる。
暑さの表現も引っかかる。
「真夏の太陽が照りつける道を」
との台詞が入るシーンには、画面内に大きく書き割りのような入道雲があるだけで、温度は微塵も感じられない。
絵画教室の真夏表現も、扇風機やかげろう、セミの声という道具立ては整っていても、画面内には暑さのカケラもない。役者たちの顔に汗の一雫もない。
スタジオ内で完結するシットコムみたいだ。
そういう映画だ、これはそういう映画なのだ。
ソラシドエアの機体が登場するが、その就航時期が合っていない。
この映画で描かれる年代にソラシドエアの宮崎〜小松線は無い。
そのことをもって、「ファンタジーの世界線」と理解するのは、この映画の「マンガ的」なトーンを考えれば正しい解釈なのかも知れない。
しかし、明子が多くのシーンで着ているアディダスのジャージ。
明子の背中に載ったトレフォイルロゴが天井からの視点で大写しになるシーンを見てしまっては、きっとソラシドエアの機体が写るのも、単なるプロダクト・プレイスメントと理解するしかない。
プロダクト・プレイスメントやるなら、もちょっと上手くやって欲しい。
どうして明子だけが先生と深くつながったのか?
これが、よくわからない。
「明子が仮病の腹痛で早退する際に、その嘘を疑いもせず、バス停までおんぶしてくれる」
というシーンが決定的な風に描かれるのだが、
どうして先生はそんなに明子のことを気にかけるのか。
そこに得心がいかない。
とすれば、先生は、明子だけではなく全ての教え子に愛情をかけていたのではないか?
という仮説が生まれ、
その仮説は、「ノストラダムスの大予言の真偽での賭け」をした生徒に対しても愛情を注いでいたことが分かる後段のシーンによって立証される。
ガサツで、直情的で手前勝手だが、絵に対しては真摯な先生
が、
ガサツで、直情的で手前勝手だが、絵に対しては真摯な先生、そしてどの教え子にも愛情をかけ続けた先生
に、変わるのはようやくラストシーンの手前である。
もちろん、『かくかくしかじか』は、明子と日高先生の物語であるが、日高先生のことを観客が愛するよすがとして、このような情報をもっと早く観せて欲しかった。
小出しに、後出しにするのは、「最後に泣いてね」みたいな作劇を叶えるためなんだろ、と思ってしまう。
前半、絵画教室で、昼メシにバナナとリンゴを持ってきた生徒に対して、
と笑うシーンがあり、どう考えても酷い物言いだが、日高先生の人柄と雰囲気でその場が全員の笑いに変わる。
その生徒に対しても日高先生は、明子と同じように接していたのであり、
だからこそ、先生の死後形見分けで集った生徒たちの中に、サル呼ばわりされた生徒の顔もある。
そのこと、そういう全方位へ憎まれ口を叩き、愛情も注いだ日高先生というのがハッキリと浮き上がってくれていれば、良かった。
「描け、描け、描けー」という先生の口癖に関して。
絵画に向き合う日高先生の「描く」
と、
漫画に賭ける明子の「描く」
のすれ違いが存在し、「描く」対象へのズレを、自作が載った漫画誌を緊張しながら見せたら、
「お前、凄いやないか!」
とあっさり先生は言う。
この台詞は、メチャメチャ感動的。すごい。
日高先生は、「漫画だから」と馬鹿にはしない。
しかし、やはり先生の「描け」と、明子の「描く」は交わらない。
仮に先生が明子の漫画を「描け」と言ってくれたなら、わかりやすいのにね。
そこは実話ベースだからなんだろうか。
原作者が脚本参加しているので、原作を読んだ人には不足を補完する気持ちで観られるのだろう。
昨今ますます原作厨が幅を利かせているので、原作者のお墨付きのある本作に納得する観客が多いのなら喜ばしいことだ。
逆に、いわゆる「マンガ的」な演出を排した、ド暗い『かくかくしかじか』も観てみたかった。
ちなみの話だが、
本作内の時間軸では、金沢美術工芸大学キャンパスは金沢市小立野五丁目にあった。
(現在は、同小立野二丁目に移転)
明子と大学でいつもつるんでいる仲間が、
「『リリー』行こ」
とだべるシーンがある。
喫茶店『リリー』は今も現役。
2025年5月現在は、店主のご病気で休業中だが、まもなく営業再開してくれるでしょう。その日を待ちましょう。