何らかの事情で夜の闇に紛れて、家財道具一式をリアカーに積み込んで、その地をスタコラすることを一般的には「夜逃げ」という。
人生の過程で、イチカバチか、結果を恐れず、過去をかなぐり捨て、明日を顧みずエイヤと真っ暗な虚空に飛び込むような所業は、経験しないでいいならば、なるべく回避したいところ。しかし、丁半博打でいずれかに全てをかけるような決断には、ある種のヒロイズムがある。
そういう意味で、「夜逃げ」という言葉には「敗北」や「逃避」が強く滲むけれど、同時に「再出発」や「白紙にする」といった前向きな感触もある。
同様な手応えを感ずる言葉には、「略奪婚」「自己破産」「リセマラ」「ホームスチール」などがある。どれも、人生の経験値を格段に上昇させてくれる類の行為。
ちなみに私が、この貧弱極まる今生の途上で経験したことがあるのは、中学生時代に体育授業のソフトボールで果敢に挑んだ「ホームスチール」だけである。
この時の試合は、体育祭でのシード権を得るための、考えうる限り中学校生活のピークと言うべき、大切なゲームであった。
結果、私の渾身万力と言ってよい「ホームスチール」は、コリジョンルールの制定前ということもあり、そもそも『コブラ』に登場するラグ・ボール並みの野武士ライクなボールゲームであったため、4組随一強肩強打を誇る捕手西川くんの、下からの三角締めみたいな体勢のブロッキングによって阻止された。
ただし、当日の私のチャレンジは、(授業中であったにも関わらず)多くの教室からのギャラリーの歓声と、(隣のグラウンドでバレーボールをしていたにも関わらず)注視していた女子たちの嬌声を浴びることによって、ハッキリと私の最高到達点となった。あの大歓声を超える声援は、後にも先にも受けたことがない。
人生のピークが中坊だったという事実は真摯に受け止めねばならない。
この先もいい事あるよ、きっと(白眼)。

という訳で、今回の「もう無い喫茶店」の入口扉には上のような貼紙があった。
このような店主の意志に基づいて書かれたであろう貼紙の存在によって、「コーヒー&スナック なおえ」の閉店は、「夜逃げ」のような窮状に見舞われたものではないことが明確になっている。
一切の痕跡が廃された空き店舗では、「もう無い喫茶店」と現認はできても、店主の声を失した状況においては、その所以が読み取れない。
その点、「閉店のお知らせ」を発見すると、そうかそうかそうなのか、とこちらの納得感は高まる。
ただ、「なおえ」さんの名が押印されたこの貼紙には、
「諸般の事情により、閉店いたします。」
とあるだけで、閉店理由の具体はない。
出来うるならば、
「建物老朽化のため」
「店主、高齢のため」
「納得できる珈琲を淹れられなくなったため」
「シンガポール移住のため」
「過日、ふと自分のやりたかったことに走り出す決意を固めたため」
「理由を問われても、絶対に答えません」
「理由を問われても、答えられないことが多すぎます」
みたいな但し書きが付随されていると、そうかそうかそうなのか、となる。
店を閉じる理由なんて言いたくない。
そんな気持ちも充分に理解できる。
私なら、言わないだろう。なんでテメエに伝えなきゃならない?
かねてからの常連や近親者には心情を伝えても、「もう無い喫茶店」を見つけてはブログを書いているような三下ブロガーや、通りすがりの御仁に内情を詳らかにする義理なんてない。
それでいい。
何かを始めるのも、始めたからにはそれを終えるのも、その事由を吹聴しなくてもいいに決まってる。

金沢駅東口から西南方向へ進むと、本町というエリアになり、以前訪れた喫茶店「喫茶館 長田亭」がある。さらに南進した先、方斉町交差点角に「コーヒー&スナック なおえ」が見えてくる。

煉瓦風の外壁にクリスマスカラーの看板も鮮やかな「コーヒー&スナック なおえ」
よもや閉店しているとは思えない外観だが、先掲の貼紙通り2023年10月16日の日付で「もう無い喫茶店」となっている。

まだ店を閉じられてから日が浅いとはいえ、閉店は2年近く前。
入口扉が奥まった位置にあるため、養生テープで八点留めされた閉店を告げる貼紙は風雨を免れ、その告知効果を保っている。
おそらく過去に訪れた「もう無い喫茶店」のいくつかには、閉店を知らせる貼紙が貼られていたと想像する。
しかし、当地の台風や吹雪を乗り越えて存在し続けるのは容易ではなく、剥がれたり破れたりしてしまったケースもあったのだろうと想像する。
「なおえ」の店名の由来も、貼紙に押された印鑑の文字「直江」から、店主のお名前だと分かる。
「なおえ」の音だけを聞くと、女性の名前かとも思うが、こちらは店主の方の苗字から名付けられたのだろう。


店頭照明はガス燈タイプ。
煉瓦、ガス燈とは大正ロマンを感じさせる。イメージだけで書いています。
「コーヒー&スナック」とあるように、モーニング→ランチ→カラオケスナックと三部制か、おそらく二部制で営業されていたようだ。
また、like a ガス燈の直下にはパトランプ。
これは、コンビニの店先にあるような赤色タイプではなく、黄色なので緊急要請目的とは異なり、営業中を知らせる目的だったのではないかと類推する。
黄色く光パトランプがグリングリン回っているところを見てみたかった。

ご存知Googleストリートビューで遡ると、最古である2012年10月には営業中の札が見える。
興味深いのは、先述のパトランプは当初設置されておらず、2019年〜2021年の間に取り付けられたことがわかった。
ガス燈チックな仄かな灯りから、ベルファーレ的なパトランプ導入への軌跡を知りたいところだが、「なおえ」はもう無い。

後日、「なおえ」から通りを挟んだ位置にある喫茶店「ビーグル」の方に伺ったところ、「なおえ」の閉業に至る事情を知ることが出来た。
「コロナの時閉めてらして、そのまま。お店の皆さんも結構お年でしたし、奥さまがお身体悪くされたようで。コロナで閉じたまま、戻られなかったんですね。カラオケもあって、かなり人は集まっておられたんですけどね」
朝早くから、お酒を呑んで歌える時間まで、多くの人々に憩いをもたらしたであろう「コーヒー&スナック なおえ」
はもう無い。
Googleマップにはまだ、「閉業」の赤文字と共に「コーヒー&スナック なおえ」が掲載されている。
清潔で居心地の良さそうな店内や、家庭的で旨そうなランチの画像を確認できる。
ちなみに灰皿も写っている。
「コーヒー&スナック なおえ」は吸えたのだ。
しかし、Google先生の気まぐれでいつ消えるやも知れない。
私は、入れなかった「なおえ」の様子を前にして、残念な気持ちを抱えるだけである。






